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創作における愛車考

Posted by MANA_NEWS on 24.2008 2 comments 0 trackback

どのような車を所有しているか
、というのは、
意外とその人のひととなりをあらわす要素ではないかなーと思うのです。
人となり……好みだとか生活習慣だとか願望だとか、見栄とか年収とか、そういったものをひっくるめて「その人」をあらわしているなーということなのですが。


私としてはクルマ自体のうんちくにはあまり興味ないのですが、その人が何故そのクルマを購入したか、という動機については興味深い。
実生活でもそうですが、創作についても同じで、登場人物の愛車の描写を見かけると「なるほどなー」と思います。
そのあたり作者さんも心得ているのか、年式にまでこだわりがあったりして、「なるほどなー」な愛車であることが多いですね。


うちの書庫でだらだらだらだらと書き続けている「水上奇譚」で大賀が乗っているのは
借り物であるレガシィB4ですが、それがなぜかと言えば人物がどうこうではなく、私自身がB4が好きだから、という、ちょー個人的な理由です。
同じ理由によって最後までこの車でありつづける予定です。


ただ、そうですねえ。
大賀自身はおそらく今はなき(レクサスでGSとして売られてますがー)トヨタのアリストとか乗ってそうです。
そんで買い替えの際にはマークXのどれかにするのではと思われます。
私の中では、大賀という男はなんかそーゆーおっさんぽい安定志向かつ金満で、だけどスポーティなとこもちょっと見せたいよね! というイヤラシイ(悪く言いすぎでは……?)イメージです。







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Category : プチ創作考

ところで。

Posted by MANA_NEWS on 30.2008 0 comments 0 trackback
書庫のほうで公開している「Letters」ですが、感想に書かなかった個人的感慨などを。

私自身は永一とゆーひとに慣れているので、感想にも書いたように「まあずっと変わらずこんなカンジなんだろうなー」と思っていたわけなのです。
仕方がない、だってこういう人なんだし、と。

ところが今回、えいみすさんのお書きになる永一を見て、

「うーわー、この子かたくなだなー!」
「にぶいなー!」
「頑固すぎるなー!」


とビックリしてしまい、
(変わらなきゃダメだ、やっぱり!!)
と改めて思ったしだいです。
健全な視点から見ると、永一とゆーのはこんなにもダメな人なのか! と驚いたのですね。


なんだかんだ言って、私(とたぶん志村)は、永一という人物のダメなところ
「自己主張するくらいなら黙ってじっと我慢する」
という部分にこそ、実は大変な愛着があるのでは――心の底では「変わってほしくない」と思っているのでは?

この事実に気がついて、うわー! と戦慄したわけです。

まあ実際のところ、このひとのダメなところこそが、この人をこの人たらしめている最大の特徴なわけですが……。
そういうわけで、私(と私の書くところの志村)では、永一を否定してやったりすることが出来ず、よって彼が変わることも幸せになることも生涯無いのでは、と思われます。
そしてこれはつまり、私という人間の愛情の持ち方、あんまりよくない持ち方であるところの愛情の正体でもあるわけです。

私の愛情の成分の98パーセントは独占欲で出来ている……。

誰しもそういうところはあるかと思いますが、それにしても私のコレはけっこうタチが悪いような。
のこり2パーセントくらいで
「いやホントはちゃんと幸せになってほしいんだよ!」
と葛藤しているわけですが。
自分で解説するのもアホみたいですが、この葛藤の堂々めぐりを書いているのが志村の物語「夏の檻」であるわけですね。

でもなあ、あれくらいが精一杯の譲歩なので、私では何回書いてもやはりこんな調子にしかならないように思います。


(永一に彼女つくってもらえてよかったなあ……)



Category : プチ創作考

物語の原型Ⅱ

Posted by MANA_NEWS on 16.2007 2 comments 0 trackback
以前にアメーバの書評ブログのほうで、創作に関する話題として「物語の原型」という記事を書いたのですが、
まあつまり、キャラクターであったりシチュエーションであったり、
「書き手本人にとって大きな意味を持つ物語の構造というものがあるはず」というような話なのですね。


福井晴敏が「少年がいておっさんがいて日本人の誇りを問う物語」ばかり書くように、
藤原伊織が「ひきこもりドロップアウト主人公→だけどモテモテキャラ」を好むように、
意識的であるのか無意識であるのかは置くとして、
「どうしてもそうしてしまう」ような――言ってみれば、「クセ」のようなものがあるのではないでしょうか。


私自身の創作はと言えば、毎度のように分かりやすく同じことばかり書いているので、いまさら分析するまでもないのですが。
あえて言うのなら、「親という存在の不在」でしょうか。
どの主人公にも親がいないわけではないのですが、保護者として機能していなかったりして、必ずそれ以外の人物が「親がわり」として存在するのですね。
志村にとっての永一がそれだったり、永一にとっての正春がそうであったり。


そして、これのナニが問題かと言えば、本物の親であれば親ばなれできる時期がくるのですが、
「親がわりの他人」からはなれていくのは、ものすごく難しかったりするのです。
そもそも、親がわりにしているとゆーこと自体に気づいていなかったりするわけですから。


これは私自身がそういう人間であることから来ている話で、
いまだに何が恋愛で何が友情で何が愛情なのか、分かってないようなところがあるのですね。

だから自分に何度でも問いかけてしまうのですが……


これが私にとっての「物語の原型」であるように、
誰しもそういう「こだわってしまう」関係性やシチュエーションがあるのではないでしょうか。
結果的にそれが「個性」というものになって物語に表われているのかな、という気がします。


Category : プチ創作考

というわけで

Posted by MANA_NEWS on 15.2007 2 comments 0 trackback
再開した更新情報ブログですが、
仮オープン状態のまま……と言うより、
むしろ後退している気もする書庫サイトですね。
まあ、そのへんはいまさらの話なので、自分のペースで(便利な言葉だ)やっていきたいと思います。

ところで、
実はわたくし、創作考の参考にと、
書庫におさめている過去に書いた物語を読み返してみたのですが……

うわー!
 
誤字、というか送り仮名が欠けてたり、なんか一文字ぬけてたり余計な音が入ってたりするところがあってビックリしましたよ!!
私は自分を人一倍そーゆーことにウルサイ人間だと思っていましたが、自分に対するチェックというのは甘いものですねえ……。

えーと、そもそも何のために読み返したのかと言えば、
スピンオフ作品についての創作考がしたかったのですよ。
しかしそれについては読んでいるうちに忘れてしまい(これが老いでしょうか……?)、かわりに違うことを思い出しました。

永一と志村というのを、私はかなり違う人間だと思っているのですが、
どこが最も違うところかというと、
永一とゆーひとは、好き嫌いを語るときに、
キライなものについては「好きではない」と言い、
スキなものについては「嫌いではない」と表現するのですよね。

そして志村は好きなものは「好き」と言い、
嫌いなものは「嫌い」と言う(それがフツーか……)。

パーソナリティーによって選ぶ言葉が違うので、当然語りも違うものになる、というようなことを言いたかったような気もするのですが、
「あー、そういえばそういう子たちだった……」

みたいな、ただ懐かしい気持になって終わってしまいました。

だめじゃん。






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